雪子の10代

飯坂町の安藤花屋に引き取られた雪子は、花屋の手伝いをするようになりました。温泉町ではありましたが、旅館等への直接の飾り付けは無くお盆お彼岸以外の収入源は、当時情操教育と言われた女学校やお寺で行われる花嫁修業の一つである いけ花で それは今で言う お生花でした。仕入れは 業者より購入するのは高価な為 借りた畑で栽培するか、お花や木を植えてある家を探してシオン等の季節により咲く花を譲ってもらったり それでも無い時は、山を歩き回って探したそうです。
                                                 
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雪子は 朝 自転車で飯坂を出 渡利の山に出かけて お花や木の手入れをしました。昼食は おにぎりを食べるのですが水筒は無く 近くに川が流れている時は、その水を飲みながら食べました。しかし山頂に近づくと川の無い事が多く。その時は朝のうちになるべく日陰にある大きな木の根元を30cm位掘っておくのだそうです。すると 昼頃には 水が溜まっていて御飯が喉に詰まらずに食べる事が出来たそうです。これは唯吉も同じ事を言っていました、昔の人の知恵なのでしょうか 覚えておいて損は無いようです。また 菊の植えてある畑では花を大きく咲かせる為に一輪だけ残して新芽を取る作業が時々あり、それに伴い雑草を取り除く作業もありました。当時の安藤花屋は毎日の米を買うのがやっとで 草むしりの道具を買う余裕はありませんでした。その作業は雑草の根まで取り除く為に素手で土を掘ったので 手はごつごつになり 掘っていると 親指より太い 根切り虫と呼ばれる黒い幼虫がごろごろと出て来て若い雪子は 根切り虫の恐怖症になってしまったそうです。そんな作業をして集められた材料は、翌日には自転車に積まれて、飯坂を出、保原町や梁川町 それに庭坂の生徒さんの元に配達されました。砂利道を山盛りの材料を積んで走っていると、当時 湯野に住んでおられた池の坊の先生が「雪ちゃーん」と呼んで自転車で 追い駆けて来たそうです。また 庭坂の萱場に お大臣さまと呼ばれる地主さんのお宅があり。そこに婦人会の人達が30人ほど集まってお花を買ってくれていたそうです。飯坂からは 約10km位あったのですが 花を持って行くとイチゴ等を冷やしてご馳走してもらえ 雪子は それがとっても嬉しかったそうです。それだけを聞くと、のどかな風景の中を、自転車に荷物を積んで走る娘を思い浮かべてしまいますが、当然 雨の日も風の日も冬の寒い日もあったのでしょうね。