戦前は不景気で花は、ほとんど売れませんでした。戦後になり戦死者の為に花を使うようになりましたが、花屋で生計を立てられるようになるのは、戦後の復興で景気が回復し。生活に余裕が出来、家を建てて、庭に花でも植えようかという気になった昭和35年過ぎからでした。
戦後の生活について雪子は。戦争直後は米が無く、とうもろこしや芋が主食で、配達や切り出しに持って行く弁当も芋なので、水か梅干がないとなかなか飲み込めなかったそうです。

当時の福島には生花市場は無く。霞町にあった“昭和園”が生花市場のような事をしていました。昭和園は自分の畑で育てた花や、千葉県から取り寄せた花を、市内の花屋に卸していました。雪子もルピナス、菜の花、金仙花、ストック等の花を、飯坂町から自転車に乗って買いに来ていました。その後、花のセイカエンさん、橘高校東側にあった植木の店“百花園”(元 福屋さん)が各地から花を取り寄せるようになりました。
昭和22年結婚。
翌年、長男 唯茂誕生。


唯吉の工夫
昭和園の近くにある修道院で、キーやんという人が、ボイラーの作業のついでに壁際でパンジーやデイジーを咲かせていました。たまたま遊びに行った唯吉は、その花が他の場所の花よりも半月早く咲く事に気が付きました。唯吉は、キーやんに「来年これ売ろう。」と持ちかけました。キーやんは「売れるかなー?」と言いましたが、唯吉は「売れる!」と断言したそうです。そして、根が傷まないように一株づつ、厚紙で作った鉢のような物で育てるようにお願いしました。翌年、それは飛ぶように売れ。気を良くした二人は、さんど豆も作り、それも完売しました。そして利益は、キーやんと半分分けにしました。
唯吉は、これは!と目を付けたら。たとえ売れなくても売れるように努力する事が商売では大切だと言っています。(尚、修道院の土まで売ってしまったので、現在でも広告等には協力させて頂いております。)


中合に売店。
福島の人なら知っている老舗のデパート“中合”に店を出す事になりました。それは、いつも花を買ってくれていた、お茶屋さんのお婆ちゃんのおかげでした。ある日、お婆ちゃんから「おめー(あんた)なー。中合さんに店ださねーがー。」と言われ。唯吉は「出せるわけねーべー。」と。お婆ちゃんは「んじゃー、おれが話し付けてやっから。」と言って下さり。店を出す事が出来ました。
売れたの?の質問に「よく売れた、その中でも特に売れたのがモミの木だった。」と。それは、本店である天神町の店の周りが林のように見えるほど仕入れたのが売り切れたのです。きっかけは、唯吉が中合の売店で店番をしている時でした。進駐軍の兵士が来て、手で木の形を真似て「オー!クリスマス。」と言ったのです。唯吉は直ぐには解りませんでしたが、きっとモミの木のような木だろうと思い。瀬ノ上の切り出し屋さん(セイやん)に相談すると、福島の北の方の山に沢山あるとの事でした。

そしてセイやんが、山の持ち主と話をして切り出し。唯吉が自転車に付けたリヤカーで山から運び出す事で話が決まりました。(その場所は、今の道路事情と車を使っても1時間は、かかる場所でした。)
モミの木は、売店に並べると午前中に売り切れ。予約をする兵士もいました。また、配達を依頼する兵士に「ノー!」と言うと、兵士達はジープで乗り付けました。しかし、面白いように売れたのは3年間ほどで、他所の花屋が売り始めた事と、切り出していた山の木が無くなってしまった事で、面白い商売では無くなってしまったそうです。


12月になると、お正月に飾る、いけ花の材料集めが始まります。市場の無い頃は、関東地方の海辺から高価な材料を取り寄せていました。唯吉は、もっと良い材料を安く提供して多くの皆さんに花を楽しんで頂きたいと考え、自分の目で確かめて集める事にしました。そして瀬ノ上町のセイやんと飯坂町のおみやげ屋で花を売っていた小野寺さんと共に自転車で相馬の海を目指しました。福島市から丸森を抜けて相馬まで行き(直線で約60km)、若松、小松、梅等を集めました。そして、福島では逸早く温室を作りボイラーで温度調整をして、正月に綺麗な梅の花を楽しんで頂きました。

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