唯吉21歳
召集令状が来て,、羽田飛行場の通信兵として配属になりました。そして初めて飛行場の監視塔に登った日でした。滑走路に着陸したDC26型機を見て、唯吉は監視塔の下にいる上官に向かい「報告ー!只今DC26型機が羽田飛行場に落ちましたー!」と叫びました。それを聞いた上官3人は慌てて登って来て「落ちましたとは何事だー!」と叫び唯吉の顔が腫れるほどに殴り「今度そんな事を言ったら承知しねーぞ!」と怒鳴りました。しかし 唯吉は何故怒られたか分からなかったそうです。
私にも記憶がありますが。この辺では、自然に落ちた事を“落ちた”。飛行機や物が過失で落ちた事を“おっこちた”と言っていたのです。

落っこちたと言っていたようです。


当時の国内は平和なもので。戦争らしき影は無く、朝起きて食事の用意をし 食事をしてかたずけて、訓練でしぼられ。そして古参兵にいじめられて一日が終わったそうです。古参兵は 自分達が新兵の時に いじめられた事に輪をかけて新兵をいじめるのを楽しみにしていたのです。当時は軍からタバコやピーナツが支給されましたが、新兵は忙しく食べる暇もタバコを吸う暇もなかったのです。唯吉は夜 トイレに入った時に、やっとそのピーナツを食べる事が出来ました。しかしトイレと言っても板で仕切っただけの粗末な物で 板の節は抜け落ちて隣同士が丸見えで。たまたま隣に古参兵が居たのを知らなかった唯吉は、用を足しながら ボリボリとピーナツを食べていたのです。トイレから出た唯吉は古参兵に「内池ちょっと来い」と呼ばれ食堂に連れて行かれました。そこには古参兵と新兵が集まっていて、古参兵は唯吉に「ピーナツを食え」と言ったそうです。唯吉がピーナツを食べると古参兵はテーブルを二つ寄せ「この上で食え」と言いました。それは先ほどのトイレの格好だったのです。唯吉は古参兵に従ってトイレの格好でビーナツを食べると いきなり びんたを2回され「ばかやろー さっきはフンドシをして食っていたのかー!」と、またビンタをされ仕方無くフンドシを外してピーナツを食べました。一人の責任はみんなの責任となっている軍隊では 仲間が古参兵に呼ばれると他の新兵は何をされるのだろうとビクビクしていました。結局新兵全員がフンドシを取りテーブルの上で ピーナツを食べさせられる事になりました。唯吉はやっと自分のピーナツを食べ終わりほっとすると。古参兵の一人が「ここにピーナツがあるぞー」と。また別の古参兵も「俺のも食わしてやれー」と次々に」持って来られ さすがの唯吉も情けなくて涙が出たそうです。
新平の仕事の一つに 古参兵の靴磨きがあったそうです 
油を付けて それはそれは綺麗に磨くのですが そこにも いじめ係りが居て「新兵全員集合ー!!」となるのです。唯吉は今日は何だべなーと考えながら集合すると さっき磨いた靴の裏の金具に小さなワラくずが一本付いていて(付けてあって) 古参兵は「これは馬糞だ」と言。そして「天皇陛下から頂いた大切な靴に馬糞を付けるとは何事だ」と厚さ3cmもあるゴムのスリッパで新平全員が殴られました。またある時はスリッパで音を立てて歩いたと言って殴られ御飯を食べるのが遅いと言っては殴られたそうです。ゴムのスリッパよりも更に痛かったのが 皮のベルトでした。それは顔にベルトが巻きつき最後に先の方が当たるのがとても痛いそうです、そしてそれらを執行するのは 新兵の怪我が上官にばれないぎりぎりの所で止める事の出来るいじめの上手な上等兵だったのです、それでも怪我で食事が出来ない新兵が居ると上官は「昨日はずいぶんと荒れていたようだが ほどほどにしろよ」と言う程度だったそうです。


羽田飛行場には 穴守神社と呼ばれる祠があって沢山の鳥居が並び。周囲は一面の葦で覆われ、青大将やヤマカジなどの蛇が沢山いました。ある日 上等兵は新兵に「おい蛇を1人10匹ずつ取って来い」と命令しました。新兵達は兵舎で上等兵にいじめられているよりも、蛇取りの方が気楽なので 喜んで出かけました。 中には蛇の好きな者もいて 生きた蛇の頭を葦で縛ってかついで来たそうです。上等兵は 蛇を取って戻った新兵の中から、蛇の嫌いそうな者を見つけると「おい、お前 皮をむいて料理しろ」と命令しました。唯吉は上等兵の先を読み 蛇なんか怖くないような態度を取り難を逃れたそうです。ちなみに 蛇は生臭くて美味しくなかったそうです。


唯吉がセミに
冬のある日 上等兵に呼ばれた唯吉は、「おい今日はセミだな」と言われたそうです。仕方無く「はい分りました」と上官の命令に従い服を脱ぎフンドシ一本で、滑走路脇の電柱に登りセミの鳴きまねをしたそうです。上等兵は「唯吉の所属する通信班を呼び「おい、この寒いのにセミが鳴いている見に行って来い。」と言いました。上等兵は、戻った新兵に「セミは何で鳴いていた」と聞き 新兵が「セミは寒い寒いと鳴いております。」と答えると。上等兵は「俺にはそうは聞こえないが・・・。」と。また別の新兵に問いかけ面白い返事が聞けるまで続けるのです。やがて 唯吉は寒さと疲れで手がしびれ、滑り落ちると上等兵にビンタを張られ、またなくなく登らされ上等兵が飽きるまでそれは続きました。

炊事の際に
鍋を洗った後に 綺麗に洗えたか上等兵に確認してもらう作業がありました。食後、円柱形の大きな鍋をタワシでよく洗い 鍋底の角を 箸を使って綺麗にしました。それは、毎食後の事なので、角は磨り減って溝が出来てしまい。まれに食事の屑が残る事がありました。それが見つかると、また「少年兵全員集合!!」となり「こんな事で、伝染病が発生したらどうするんだー」と怒られ 一列に並ばされて。ひとりづつ鍋を頭から被せられ 大きなしゃもじで横から殴られ、よろけると反対側からまた殴られ。それは、ひどいもので中には鼓膜が破れた者も居たそうです。軍隊では、すべて連帯責任なので、班に一人でも 間の抜けた者が居るとその班は悲惨なものだったそうです。

また 外泊した仲間が ダニを連れ帰った事がありました。
そんな事が上官にばれたら、それは大事になるので。見つからないうちに退治するために唯吉は、見張りをする者 服や下着をお湯で煮てダニを殺す役、それを干す役に分け。見つからないように対処したそうです

本土が攻撃を受け始めると、徹夜の無線連絡が続きました。
普段は音声による連絡が、空襲が始まるとモールス信号に変わるのですが。唯吉はモールス信号が苦手だったそうです。徹夜も2日を越えると仕事はしているものの居眠りが始まり とたんにバットのような物で殴られ。こんなひどい思いをするなら前線に行って死んだ方がましだとさえ思えたそうです。

御親閲の記念 新兵の頃 よく殴られたのは
唯吉に「殴られたのは 生意気そうに見えるからじゃない?」と聞くと.。(んー)と考えてから「多分何でも出来たからかな。」と答えました。 その返事に私は疑問を感じました。いい年して謙遜を知らないのかと思いましたが・・・そうではなかったのでした。

唯吉は、徴兵になるまでの2年半。近所にあった福島工手学校(今で言う中学校で大工仕事等の物作りを教えていた学校 現在の第四小学校)で 軍需教練を教えていたのです。唯吉は小柄な為、最初は皆命令を聞いてくれなかったそうです。そこで生徒達と一緒に軍需教練を行い自分より大きな生徒を相手にして 圧倒的な差を見せつけ 驚かせたそうです。なんと唯吉は 100人中4人か5人位しか取れない1級を持っていました。それは 100m走 2,000m走 俵を担いで25m手榴弾投げ 走り幅跳び 懸垂の6種目すべてに合格しなくては取れないのだそうです。
おかげで それからの生徒達は 唯吉の号令 右向け右 左向け左 担え筒 抱え筒 回れ右に忠実に従ってくれたそうです。終戦後 飲み屋で、その頃の生徒に会うと「内池教官・・・・・・」と言われ 照れくさい思いをしたそうです。そんな唯吉だから上等兵は扱いにくく 面白くなかったのではと思いました。

生き残れたのは
まず 小柄な為に兵隊のランク(上から甲乙丙)が一番下の丙種だった事で前線行きを免れました。甲種の大半は前線で亡くなったそうです。それに加え、視力が2.0以上?で、とても良く。視力の検査官は、暗記しているのではないかと別の視力検査表を持って来たそうですが、間違いは無く驚いていたそうです。その為 当時 警察署にあった監視塔で飛行機の監視を命ぜられ徴用(軍事品作り)も免れました。しかし昭和19年1月10日唯吉にも徴兵命令が下りました。


戦争の話しの最後に 唯吉は こう付け加えました。「おれは軍隊では随分とひどい目にあったけれど ひどい目にあった分以上に 軍隊にはお礼をして来た。だから 貸し借り無しだ。」と。何か、ちょっと違うような気がしますね。でも当事者でないと、その気持ちは分りませんね。唯吉の戦争は 悲惨な戦争ではなく ひどい戦争だったようです。


写真は昭和20年6月18日(外泊の記念の写真)唯吉23歳(上等兵)



一方の雪子は
唯吉が、いじめ いじめられている間 生死の境をさまよっていました。16歳で徴用に取られ 川崎の軍需工場で 飛行機の部品を作っていました。作業中には機械に挟まれそうになり。空襲になると防空壕の中に逃げ込み、機銃や爆撃の音と振動で生きた心地のしない毎日でした。空襲が収まり防空壕を出ると今まであった工場が跡形も無く吹き飛び、大きな穴になっていた事もあり、わすかに残った屋根には10cm間隔位で穴が明き空襲の激しさを物語っていました。そして 空襲に追い駆けられるように あちこちの工場を転々と逃げ回っていました。ある休日に 宿舎の縁側で仲間達と雑談をしていた時。突然の爆発音に驚き音の方を見ると、3〜4人離れて座っていた人の内臓が飛び散って倒れ込むのが目に入りました。十代半ばの彼女は即死だったそうです。後で分った事ですが空襲の際に投下された物で、オルゴールのような物が爆発したそうです。激しい空襲の為、多くの仲間が亡くなり、毎日のように仲間の遺体を火葬したそうです。そんな生活が終戦まで続きましたが、雪子は運良く生きて福島に帰る事ができました。

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